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魅惑の国、インドへ―女20歳の一人旅

プロローグ
インドへ足を踏み入れた者は、もう二度と行きたくないと思うか、その魅力の虜となるか、そのどちらかになると言う。
私に言わせれば、インドはそのどちらもあわせ持つ、不思議な魅力がある国である。
女の一人旅ともあれば、当然様々なトラブルに遭う。
騙され、嘘をつかれ、酷いセクハラを受け、そんな酷い思い出があるにもかかわらず、インドを愛さずにはいられないその理由について書いて行きたい。

自分への挑戦
インドへの旅を決めたのは、短大2年の頃だった。
周りの友達が就職活動をしている中、私は大学へ編入することに決めていた。
しかし、その頃私はある一つの想いに駆られていた。

「一度でいいから、自分の可能性を試してみたい。」

という想いであった。
そこで私は、どうせ自分を試すなら、過酷な条件の国がいいと思い、インドを選んだ。
インドへは、短大1年生の春休みに行ったアフリカのケニアへのスタディーツァーの途中で乗り継ぎのため東インドのカルカッタで1泊だけしたことがあった。そこの従業員にセクハラされ、無理やり高額なチップを取られた嫌な思い出があった。

でもそこでさらに印象に残ったのはストリートチルドレンの存在であった。
私は空港から1泊する予定のホテルに向かう途中のバス乗り場で、10歳くらいの男の子たちが私たちに群がってきた。
その中でも一際目をひいたのは、足が腕と変わらないくらい細く、お腹は栄養失調で張っていて、上半身は裸の男の子であった。その子は足が悪いのか、這った状態でお金を要求してきた。何不自由ない生活をしてきた私は言葉にならないほどの衝撃を受けたのだった。

そのような理由で、私はインド行きを決めたのであるが、当然ながら両親は大反対であった。
しかし、根気強く説得しつつビザの取得や航空券の手配、ホテルの手配を行い、ただの観光旅行ではインドのよさはわからないと過去の経験からそう思い、現地のNGO受け入れの手配なども自分で行った。
現地のNGOでは、海外からの旅行客を農村地帯へ派遣し、観光旅行では体験できない生のインドを見せてくれるというのだ。
参加条件は30日の現地への滞在で、そうしないと生活はわからないからということであった。しかし、女性一人でもOKで、空港への迎えも初日のホテルの手配もしてくれ、同じ時に他にも日本人女性が1人いるというので参加を決意したのだった。

インドへの旅立ち
家族の見送る中、私はインドへ一人旅立った。
腰まであった長い髪をバッサリと切り、服は作業着のような男物の服、背中にはバックパッカーのような大きな登山用のリュック。貴重品は細心の注意を払って分散させた。
エアインディアに乗り、昼の12時に成田を出発して首都デリーには夜の22時に着いた。ドルからルピーに両替をしてロビーで迎えを探したが誰もいない。私はガイドブックを抱え、途方にくれた。

実はこの出発する数日前に、20歳くらいの日本人男性が空港で死体で発見されたというニュースを聞いたばかりだったのだ。
空港はとても危険で、ここからその辺の出待ちしているタクシーに乗ったら最後、高額なお金を払わされたり最悪の場合事件に巻き込まれるのだ。

私はとにかく予約してもらったはずのホテルに行けばなんとかなると思い、空港にある前払い式の比較的安全といわれているタクシーに乗ってホテルに向かった…はずだった。
人通りが多くなってきた場所にタクシーは止まり、ホテルに着いたのかと聞いてみると、なんと観光案内所に来たというではないか。
タクシーで観光案内所に連れて行かれて数人の男に囲まれて高額なお金を請求された例が、ガイドブックに書かれていたことを思い出し、タクシー運転手に怒りをぶつけた。

そうしたら、なんとその運転手はそのホテルの場所がわからないから観光案内所にきたというのだ。住所を見せてもわからないというのだ。とりあえず観光案内所に恐る恐る入り、別のホテルを案内してもらったが、本当に初日から恐ろしい目にあってしまった。しかも夜だったから本当に怖かった。

気を取り直していざ農村地帯へ
NGOの事務所へ行くと、21歳のフィンランドの女性を紹介され、その子と一緒に村まで行くことになった。私は英語がたどたどしいので、ほとんどその子に連れて行ってもらった感じであった。

道のりは遠く、夜行電車やバス、ジープ(農村地帯ではタクシーはなく、乗り合いのジープに乗って村間を移動する)を乗り継いで、首都デリーから一日がかりで北インドのウッタルプラデーシュ州の(ネパールに近い)ヒマラヤ山脈の近くの山里にたどりついた。
私たちを迎えてくれたのは高齢の厳粛なヒンドゥ教徒の老人夫婦であった。その容貌はガンジーを思い起こさせる。
私たちが生活したのは、コンクリートに古い薄いカーペットのようなものが敷かれた、殺風景な場所だった。部屋についているのはインド式のトイレのみ。(トイレに紙はなく、バケツに汲んだ水をカップですくってお尻を洗い流す)その部屋の1階部分に老夫婦の部屋と食事場所、台所がある。その場所へは一旦部屋を出て外から回り込まなくてはならない。
食事は野菜のみで、主食はチャパティかライスである。だいたいの料理はあまり辛くはないが、独特のスパイスが効いている。3食が同じような料理だったので、30日の間肉や魚、卵が恋しかった。

村での生活は本当に質素なものだった。ウッタルプラディーシュ州はインドの中でも最も貧しい州の一つで、村の人々の生活水準は低かった。
みんな自給自足のような生活で、畑へは谷を超え山を越えて1時間以上も歩く場所にある。しかも途中には野生のトラが出ることもある危険な場所である。私も何度か畑へ同行したが、道幅が30センチで左は山肌、右は崖なんて場所を農具や収穫物を持って通るのだ。まさに命がけである。

それでも村の人々は口々に言う。

「あなたの国ほどお金持ちじゃないが、私たちは今の暮らしで十分満足している。食べるものがあって、家族がいる。これ以上幸せなことはない」

と。
モノがあるから幸せなわけではない。これは決して見栄を張っていったものではなく、本心だと思った。
この村の人々は、信仰によって支えられ、守られている。
ヒンドゥ教では質素倹約を美徳としている。欲を持ってはならない。殺生をしてはならない。そう小さい頃から教えられてきたのだ。
モノの豊かさではなく、精神の豊かさこそ本当の豊かさだと、私は村の人たちに教えられた。

農村の人々との交流
農村の人々は英語がほとんど話せない。高校で少しかじるくらいなのだ。外国人と会話する機会もないので、その地域の言語とヒンドゥ語くらいしか話せない。
私はといえば、中高での英語は赤点だし、ヒンドゥ語も本を見ながら挨拶くらいしか話せない。当然、みんなが何を話しているのかわからないから、他の五感をフルに使って会話するしかない。

私は、村の人々とコミュニケーションをとるために、あらゆることをした。ボディーラングエッジはもとより、絵で説明したり、音で表現して伝えたり、感情は顔や声のトーンで表現した。
すると、不思議である。言葉が通じなくても、気持ちが通じるのだ。
言葉が通じなくても笑ったり、怒ったり、泣いたりできることを知った。外見や言葉や価値観が違っても、友達になることができることを知った。

私は村中の子供たちと友達になった。村中の人々と仲良くなり、お茶や食事に呼ばれたり、遊びに連れて行ってもらったりした。同じものを食べ、同じものを飲んだ。(通常、インドで観光客が生水を飲むのはタブーとされている。しかし、農村にはミネラルウォーターは売ってないし、何より山間部で水がきれいだった。)

一方、もう一人のフィンランドの女性は、村の人々と打ち解けることができず、途中でリタイアしてしまった。
私は残りの20日を一人で過ごさなくてはならなかったが、そんな私を心配して、村中の人が私にさらに優しく、無条件の愛情を注いでくれた。
この地図にも載っていない、小さな小さな村で、私は家族を持つことができた。私にとっては第二の家族で、かけがえのないものとなった。

家族のみんなは言ってくれた。また必ず帰ってきてねと。私たちのことを決してわすれないでねと。

別れの時、私は涙が止まらなかった。見送ってくれた村の人たちも私のために泣いてくれた。
村の子供たちはいつまでも、いつまでも、手を振ってくれた。
私は誓った。みんなに教わったことは絶対に忘れないと。

エピローグ
私は1ヶ月で、だいぶ変わった。
家族や友人も私の変わりようには驚いていた。
日本に帰ってきて、モノの多さに驚いた。なんと無駄の多いことだろうと。捨てられるもののなんと多いことだろうと。
そして、大切なことに気がついた。日本では会話を言葉に頼りきっているということに。
私は1ヶ月というもの、相手の言うことには全身を傾けて聞いていたし、一生懸命に自分の思いや考えを相手に伝えていた。
日本では違う。どこかよそよそしさを感じ、一気にインドが恋しくなった。

また帰ってきてね、という村の人々の言葉。また帰りたい。今度は自分の子供に見せてあげたい。
モノやお金がなくても豊かになれる方法や、人種や言葉が違っても友達になれるんだってことを、教えてあげたい。これからの未来を担う子供たちにとって、それはとても大切なことだから。


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